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歴史終日:Rekishi Hinemosu

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2019年 05月 26日

秦氏は始皇帝の子孫か?


??(○´д`○)??こんにちわぁ♪


加治木義博

言語復原史学会」

「大学講義録他

『秦氏は始皇帝の子孫か?


    秦氏は何だったのか?

 という疑問に対しての答は、

 『日本書紀』に詳しく書いてあるし、

 『新撰姓氏録』などにもその子孫たちの消息が

 詳細に記録されていて、

 『書紀』が書く素性が真実であることを、

 大量に立証し続けている。

 『日本書紀』誉田(応神)天皇十四年の二、

 「是の歳、弓月君 百済より来帰。

  因って奏して曰う。臣、己れの韓の人夫、

  百二十県を領して帰化せんとす。

  然るに新羅人これを拒むに因りて皆。

  加羅の国に留めらる。

  これを聞いて天皇は

  葛城襲津彦を加羅に派遣し、
 
  弓月の人夫を召させたが、

  三年を経ても襲津彦は帰って来なかった。」


 『新撰姓氏録』左京諸蕃上。

 「秦の始皇帝の十三世孫・孝武王の子・功満王、

  仲哀天皇八年来朝帰化。

  その子・融通王(弓月君)、

  応神天皇十四年来朝帰化。

  太秦公宿弥の祖也。」


 『三代実録』

 元慶七年十二月、右京人・秦宿祢永原、秦言。

 「秦氏は秦の始皇十二世孫・功満王の子・

  融通王の苗裔で、功満は占星して翌朝に深向、

  遠く日域を志したが、

  新羅が路をはばみ王都を隔てしも、

  陽を仰ぐ心、空しからず、

  天誅くだって罪人を伐ち、官軍塵を払って、

  百二十七県の人民、

  誉田天皇十四年、歳次・癸卯、

  ここに内属し焉わる也。」

 中国の県は郡の下にあるから、

 我が国の今の県のように大きくはないが、

 それでも百二十七県の人民といえば、

 大変な数になる。

 それが真実だったことは、

 普通なら肩身が狭く、

 ひっそりと消滅してしまうのが一般の、

 哀れむべき流れ者だったはずの彼等の子孫が、

 我が国の土着名門の子弟よりも裕福に栄え、

 はるかに多くの記録を残している事実が、

 強く立証している。


 その人達が皆、功満王、融通王を

 始皇帝の子孫と認めていたのである。

 そして王の指示に従って、不安を乗り越え、

 危険を冒して、未知の、遠い、

 しかも絶海の島国へ大移動してきたのである。

 その引率者が偽者の王であると知っていたら、

 とてもついてはこない。
                      
 もとは王族だといっても

 秦(シン)が滅びて漢になり、

 それも前漢が滅びて後漢になり、

 三国時代になり、

 五胡十六国時代になり、

 それが互いに食い合って

 昨日の勝者は今日は敗者といった

 未曾有の大動乱時代である。

 それなのに一度ならず、二度までも

 我が国へ帰化して来たというのは、

 引率者の祖先、始皇が、

 かつてない巨大な帝国を築いた余光が、

 まだ強かったためだとみる以外に

 理由は考えられない。

 また天皇も必ず真偽を確かめたはずである。

 大乱の時代に異国から大群が

 押し寄せるのを許すのは、

 充分な配慮の結果なのである。


 ただ始皇帝の何世孫といっても単純ではない。

 何といっても阿房宮に

 美女三千を侍らせた男である。

 それに行方不明とは言っても、

 徐福が数千人の人を連れて、

 我が国めざして来たというのも事実である。

 その時は皇女が来ていて、

 南中国では、

 天照大神がその皇女だということになっている。

 その後の海上交通の発達を考えると、

 情報は充分届くから、

 在来のような隔絶感はない。

 それなのに彼等の消息は、

 不明のまま現在に至っているのだ。


 これは秦氏が除福たちではないと

 誤認された場合しか、あり得ない。

 でなければ人口の少なかった時代に、

 数千人の大群が行方不明になれば、

 それこそ全世界にニュースになる。

 それは電波はなくても船があったからだ。

 船のサイズは小さくても、

 フェニキヤの船の壁画でご覧のような大船が、

 始皇帝(B.C.E.221年即位)より前の

 B.C.E.700年には、

 世界の海を走り回っていたのである。

 スサノオはそれよりもさらに千年ちかく

 前に我国まで来ていた。

 こうした事実を在来の教師たちが

 知らなかったために、

 誤った世界観しかなかったに為ぎない。

 それなのにニュースにならなかったのは、

 徐福たちは難民として

 「新羅」に住みついたので

 誰にも特別視されずに済み、

 安全を見極めてから秦氏として、

 応神天皇十四年に来朝帰化し、

 太秦(うずまさ)の号をもらう程に
 
 改めて繁栄を極めたのである。


 だがなぜ「徐福」かをご説明しよう。

 それはのちの秦氏の一族が、宗教家であり、

 また宗教関係の仕事に通暁し、

 携さわっているからである。

 京都の松尾(まつのお)大社を建立したのは、

 秦(はた)の都理であり、

 賀茂神社も秦氏から出た鴨氏が建て、

 金比羅宮も白山神社も一族が建てているし、

 全国の八幡杜の元締め辛島民も

 やはり秦氏の一族で、神道=秦道に見える。

 また前記の経師や寺院関係者もいる。

 これは宗教家だった徐福にはできるが、

 始皇帝にはできない。

 弓月の君らは徐福の後継者に教育されて、

 初めて宗教家になれたのである。

 ここで残る謎は、

 彼等が新羅と百済のどちらから

 応神帝の都に移ったか?という疑問である。

 在来は新羅といえば

 朝鮮半島の東南隅にしか無かったと

 思い込んだ学者ばかりがいたが、

 言語復原史学の皆様は、

 それが薩摩半島の開聞(ヒラキキ)=枚聞から、

 白日別=筑紫に移り、

 その後、

 朝鮮半島に移って全半島を支配したことを、

 よくご存じである。

 羅は国の字と同じ名詞で、国名ではないから

 新はシン、

 秦もシン、

 新羅=秦国で同じものだったのである。

 白日別は沖縄読みするとシラヂッビチ、

 このチをキにするとシラギッビキ、

 白木津日木=シラギのヒコと読める。

 これは沖縄から薩南南部に来たという

 名前である。

 その薩摩には吹上浜という地名がある。

 フッキアゲは福王(フッキ)上りだから

 彼の上陸地を意味する。

 八百万の神を祭るのが天皇家の神道である。

 その実例が秦氏で、

 重要な神職を全部任せ、

 行事も祭礼や山車(だし)を

 インドや東南アジアなどから

 偏見なく取り入れている。

 それは秦氏が持ってきた秦(シン)の宗教より、

 遥かに高く強力な大理想が、

 根底にあるためなのである。


 ※フェニキヤの船の壁画

 M.K記(責)
 連絡先:090-2485-7908



# by matmkanehara | 2019-05-26 05:27 | 姓氏
2019年 05月 26日

かわべ・かんなべ(川辺・河邊・河辺)


??(○´д`○)??こんにちわぁ♪


加治木義博

言語復原史学会」

「大学講義録他

かわべ・かんなべ(川辺・河邊・河辺)


    A.C.E.247 

 この頃鹿児島県川辺郡(灌奴部(かんなべ))の

 知覧(ちらん)に

 古代新羅「鶏林(ちりん)」が都する。

 注)灌奴部(カンナブ)


 この部族の名を取った道具がある。

 カンナ(鉋)である。

 こうした道具が現れたのは、

 鉄器時代に入ってからで、

 この名が部族名と道具名の双方に合うのは、

 その発明者で、供給者だったからである。

 『魏書・辰韓章』には

 「この国は鉄が出る。

  韓・濊(わい)・倭人が
 
  自由にそれを取っている」

 と書いてあるから、

 その鉄で鉄器を作る仕事が始まっていた。

 もちろんそれ以前から青銅器も作っていた。

 その担当者がこの[金の部=カンナブ]の人々だ。

 なおその当時のカンナは

 現在のようなものではない、

 大きいノミのような

 [やりガンナ]といわれるようなものが

 当時の文化財としてたくさん出土している。

 だから刀剣以外の木を削る道具を

 カンナと呼んだのである。
 
 中国地方は山地に

 [カンナベ・カンナビ]

 という地名が残っているが、

 川辺も[カンナベ]と読めるので、

 この人々の移動の跡がたどれる。

 摂津の国の西端は

 川辺(かわべ)郡であることに注意がいる。
 
 なぜなら今は発音が少し違うが、

 全く同じ文字の川辺(かわなべ)郡が

 やはり鹿児島県にあるからである。


 『倭名類聚鈔』を見ると、

 双方とも「河邊郡」で、

 発音も「加波乃倍=カハノベ」と

 同じ仮名がふってあるから、

 全く同じ地名だったことがわかる。


 河野をコウノと発音することを考えると、

 この河邊は「コウベ」とも発音できるから、

 古代には今の神戸市域も、

 この河邊郡の一部だった可能性が高い。

 河邊=コウナベだから当て字を変えると

 「高国部(コウナベ)」。

 これは

 南海の高族と高句麗とに属した人々である。

 東国にみる

 倭国政権移動(河辺・川辺)の痕跡は

 遠江の国:河辺、

 美濃の国:川辺、

 常陸の国:川辺、

 陸奥の国:河辺がある。



 M.K記(責)
 連絡先:090-2485-7908




# by matmkanehara | 2019-05-26 04:44 | 地名
2019年 05月 26日

ヤオ人




??(○´д`○)??こんにちわぁ♪


加治木義博

言語復原史学会」

「大学講義録他

ヤオ人


   ヤオ人が古代近畿圏にいたことは、

 大阪府の生駒山の西麓に

 八尾(やお)市という大きな地域があることや

 ヤオ姓の存在で理解できる。

 また弥生時代の弥生も、

 土器の出土地名から

 [弥生はヤオ]への当て字であった。
 
 今、中国とその周辺のヤオ人は山地民だから、

 古代八尾人は生駒山から

 東の山地・奈良に住んだ集団本体の一部で、

 漁業と野菜供給を分担した部族

 「ヤオヤ=八百屋」だったはずである。

 現代でも市域を形成するほどの地名を残したのは、

 彼らの勢力が強かったことを示している。


 銅鐸をもった弥生人が住んでいたから、

 近畿圏に今、

 八尾市という都市が現存しているのである。

 銅鐸人とはどんな人々だったのか?…。

 大坂府の東端にある

 「八尾市」の地名が証明する「ヤオ人」である。

 今、中国から東南アジアに分布する彼等は、

 銅鼓を儀式に使う人たちであり、
 八尾は打楽器の伴奏で賑かに祭りを歌い上げる「河内音頭」の発祥の地である。

 銅鼓と銅鐸は同じ時代の製銅と銅器製作技術の産物で、
 その形態は周の時代に始まった礼楽用楽器「扁鐘」の発展したものである。

 技術が集団の秘伝文明だった当時の時代を考えると、
 中国のヤオ人と八尾人とは同じ文化集団だつた。

 銅鐸をもった八尾人は[道教徒]のヤオ人である。

 銅鐸を代表的文化遺産として残したのは

 中国からの移住者・銅鐸と河内音頭を残した

 歌のうまい人々ヤオ(謡・揺=八尾)人である。


 [銅鐸人]の弥生人は、

 紀元前のベトナム・ドンソン遺跡から

 立派な銅鼓が出ているので、

 そのあたりからの移住者だった。

 中国には今も銅鼓を太鼓のように使っている

 ヤオ(揺)人と呼ばれる少数住民がいますが、

 日本でも銅鐸の出土する地域には

 八尾、八百井、矢追、八百板

 などという地名や姓が残っています。

 これから考えると

 弥生時代の名の起こりになった

 東京都の「弥生」町の名も、

 古代にはヤオ人が住む

 「弥=ヤ・生=オ」

 と呼ばれた土地だったものが、

 時が経つにつれて文字のせいでヤオイと読まれ、

 ヤヨイと訛ったものだ。




 M.K記(責)
 連絡先:090-2485-7908



# by matmkanehara | 2019-05-26 04:33 | 由来
2019年 05月 26日

生物の命名法(ギリシャ式)


??(○´д`○)??こんにちわぁ♪


加治木義博

言語復原史学会」

「大学講義録他

生物の命名法(ギリシャ式)


   標準語のウオ(魚)をイオと発音するのは

 薩摩語である。

 このウォとイオが同じ意味をもつのは、

 それが日本語に加わった当時の支配者が

 イオニヤ系の人たちだったからで、

 日本人の姓にみられる魚との共通名は、

 ギリシャ人を祖先にもつことの

 表現にほかならない。


 それは魚の種類ごとの個体の大きさと、

 命名当時の古代部族の勢力の大きさとが

 ピッタリ比例しているので、

 部族名のほうが先にあって、

 それが魚名に転用されたことがわかる。

 個体の大きさ順に例を挙げると、

 クジラ=百済。

 カジキ=梶木・加治木。

 シーラ=新羅。

 サワラ=佐原。

 ハタ =波田・波多・羽田・秦・畑。

 スズキ=鈴木・寿松木。

 タイ =田井。

 タコ =田子・多胡。

 カニ =可児。

 カイ =甲斐。

 ウニ =宇根(沖縄姓、発音ウニ)。

 クラゲ=倉下

 さんなどである。


 このほかにも大量にあるから、

 ご自分で調べてみて戴きたい。


 ギリシャ神話をみると、

 美少年ヒヤキントスは

 ゼフィルスの投げた円盤で殺されたが、

 その流した血が美しい草花になったので、

 それをヒヤキントス(ヒヤシンス)と名づけた。


 アポルロンの息子アスクレピオスは、

 薬草の研究をして死者を少なくしたので、

 地獄の王ハデスが憎んで、

 ゼウスに雷で撃ち殺させた。


 ギリシャ人は彼を記念して

 彼の発見した薬草にアスクレピオス

 という名をつけた。

 といったものがたくさんある。

 動植物を崇めて

 部族のトーテムにする人々とは完全に逆で、

 すべて先にあった神や妖精や人の名を

 記念して植物名にしていて、

 これがギリシャ

 独特の文化だったことがよくわかる。

 日本の場合は、

 これと同じ思想で部族の名が

 魚類の名として使われている。


 これに比べると蒙古人は、

 この逆に獣の『狼』をトーテム神として崇めた。


 魚名を姓にもつ日本人の先祖が絶対に

 蒙古人ではないことは、

 これだけでも明確に立証されているのだ。


 イオニヤはギリシャ本土からみると海を隔てた、

 東のアジアにある植民地で、

 その国名は「イオン=往く」

 という意味をもっているから、

 「遠征者」の国だったことがわかる。


 7世紀まで倭国の指導勢力だった『百済』の、

 その国名の漢字は、

 もともとギリシャの

 海神ポセイドンに対する当て字だから、

 その一族は海のつわものたちである。


 部族名を魚の名にしたのも、

 イオニヤ系ギリシャ人ならではの

 必然的な文化表現だったのだ。

 『記・紀』に登場する海神族は

 豊玉姫がワニに変身し、

 海上の送り迎えにもワニが活躍する。


 その中には、

 「佐比(武器)持ちの神」と呼ばれる

 ノコギリザメかカジキマグロらしい神もある。


 それもまた、

 このイオニヤ文明の産物であることは

 疑問の余地がない。


 こうして日本神話の担い手は、

 間違いなくギリシャ系の人々だったことが

 確認できるのである。



 M.K記(責)
 連絡先:090-2485-7908


    


# by matmkanehara | 2019-05-26 04:23 | 由来
2019年 05月 26日

魚と同じ名の姓


??(○´д`○)??こんにちわぁ♪


加治木義博

言語復原史学会」

「大学講義録他

魚と同じ名の姓


  アサリ=浅利・麻里・浅井。         

 アジ=庵治・安司・阿遅。味~。

 アメノウオ=天の魚(琵琶湖だけにいる)

 アラ=荒。

 アンコウ=安康天皇

 イカ=伊賀・伊香。

 イサザ=五十狭

 イシモチ=石持・石毛智。          

 イナダ=稲田。

 イルカ=入川・入鹿。         

 イワシ=岩下・鰯田・岩師・井橋。

 チュウパ(イワシ)=中馬。

 コパ(イワシ)=木場・木庭・木葉。

 オオバ(イワシ)=大場・大庭。

 イワナ=岩名・岩国。

 ウグイ=大食→タジー→田尻。

 ウナギ=海の貴・棟木・大凧

 ウニ=宇根(沖縄発音ウニ)。

 エイ=頴娃・永。

 エソ=蝦夷。

 エビ=恵美・蝦夷。

 オイカワ=及川・老川。

 オコゼ=大小瀬。

 カイ=甲斐。

 カジキ=梶木・加治木。

 カツオ=加治木の魚→カチッオ→勝魚

 カニ=可児。

 カレイ=嘉例川。

 ギギ=魏・ゲギュウ(外宮)

 キス=岐須・仇首・木津

 キハダ=木皮。

 クジラ=百済。

 クラゲ=倉下。

 コイ=許斐・己斐・古井。

 コノシロ=古野・河野

 コチ=高知・徴叱許智。

 ゴマメ=高麗女。

 サバ=佐波・早波。

 サメ=蚊島・醒井・鮫間。

 サヨリ=佐用理=佐依=小夜=玉依姫に対するサヨ

 サワラ=砂原・佐原・早良・草羅。

 サンゴ=三吾・珊瑚。

 シーラ=椎良・白・斯羅・新羅・志毘羅。

 シジミ=志治味・洒水。

 シビ=志斐連・阿部と中臣にある

 シャチ=幸

 スガイ=菅井・須貝。

 スズキ=鈴木・寿鈴木。

 スバシリ=砂走

 スルメ=水流女

 タイ=田井。

 タコ=田子・多胡。             

 タナゴ=棚川・多奈川

 タニシ=谷下・谷重

 タラ=太良・太良・田羅・多羅。

 トビウオ=鳥見・富尾。

 ドジョウ=土酋

 トミヨ=富尾・富代・十三代。

 ナマズ=生津・鯰田

 ニシン=西野

 ニナ=蜷川。

 ニベ=仁部

 ハエ(ハヤ)=芳養・速・隼

 ハゼ=枦・羽瀬・土師・長谷・泊瀬。

 ハタ=波田・波多・羽田・秦・畑。

 ハタハタ=秦

 ハマチ=濱地、羽町。

 ハモ=韓(ハン)

 ヒガイ=比嘉

 ヒラメ=比良女・新羅女

 フカ=深尾・深田・深日。

 フク=福

 フナ=二名・鮒・船井・舟木・船田・船の史。

 ブリ=武利・武衛・風流・佐分利。

 ボラ=坊・洞

 マス=増田・升・桝川・舛添・益城。     

 マベ=間部

 マルタ=丸田・円田。

 ムツ=陸奥・武津。

 ヤマベ=山辺・山戸・屋麻戸。

 ワカマツ=若松・新松。

 ワニ(鮫)=和邇・王仁・和二・羽仁。



 M.K記(責)
 連絡先:090-2485-7908





# by matmkanehara | 2019-05-26 04:08 | 由来